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現役時代の写真をみながら、堀内恒夫本人が当時の思い出を語る

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  さて、今月の1枚は・・・

ノーヒットノーランと3打席連続本塁打

(上)1967年のピッチング (C)報知新聞社

(下)当時の新聞の切り抜き ファンの方が送ってくれたもの

1967年10月10日

後楽園球場 対広島戦


1967年はね

入団2年目の年なんだけど

華々しいデビューとは正反対

俺にとっては

厳しいスタートになったんだ。


1月多摩川グランドでの練習中

突然、腰に衝撃が走ってね

トレーナーにギックリ腰では?

って言われたんだけど

接骨医 吉田増蔵先生の診立てで

椎間板ヘルニア

それも一部に亀裂が入ってるって、

治るのに半年はかかるって言われた。


でもその年は

宮崎キャンプの後

アメリカのベロビーチで

ドジャースとの合同練習が

予定されてたんだ。


俺、それにどうしても

行きたかったから

ギックリ腰のまま

通すことにしたんだ。


でもしばらくして

投げることはおろか

走ることもできなくなり

ついには

痛みで夜寝ることすら

出来なくなった。


だからみんなにバレないよう

コッソリとウィスキーを買い込み

寝る前に飲むことにした。


俺、酒は好きじゃなかったけど

痛みが増すごとに

酒の量も増えたもんだから

酒の臭いプンプンさせて

練習に参加してたんだろうな。


何も知らない

新聞記者からは

練習はさぼるし

酒の臭いはするわで

「遊びすぎ」

「天狗になりすぎ」

なんて書かれてね、


1年目に生意気なこと

ばっかり言ってたもんだから

その腹いせか!

っていうくらいに叩かれたね~(笑)


というわけで

シーズン始めは

1軍2軍を行ったり来たりで定着できず。

2軍というものも

しっかりと味わいました。


2軍の試合は

早く終わるから

新宿 末広亭には

よく通ったよ。


2階席の目立たないところに座ってね

その時は落語さえも

よく耳に入ってこなかったけど

合宿所に居たくなくて

1人になりたかったんだろうなぁ。


合宿所の部屋に

パチンコ台を置いて

部屋にこもって

ずっと球を弾いてたりもした。


この椎間板ヘルニアとは

一生のお付き合いになるんだけれども

腰の痛みを感じなくなった7月に

何度目かの1軍復帰となった。


そして

7月30日完投勝利を皮切りに

怒涛の8連勝で1軍に定着

1軍の試合で投げることは

本当に楽しかったよ。


そうして迎えた10月10日だったんだ。

優勝が決まった後の

日本シリーズまでの

練習のような試合


前日のバッティング練習で

持ち前のリラックスした感じが

なくなっているよって

アドバイスを受けて

手首がぐっと柔らかくなった。


そうするといい当たりが出て

イメージも良かったから

試合前のフリーバッティングはやらず、

そのまま本番に臨んだ。


そうしたらなんと

3打席連続本塁打だよ!

(ちなみに4打席目は

センター前ヒットですからね。)


ピッチャーが

ダイアモンドを3回もまわるなんて

そうあることじゃないだろ。

いや~楽しくてね、


頭の中は

ホームランのことばかり考えてて

四球も出してもんだから

9回までノーヒットノーランだってことに

俺自身、気づいてなかったんだよ。


いやね、

8回の広島の攻撃で

3-0から古場竹織さんが打ってきた時

いつもなら絶対そんなことしないのに

とは思ってたんだよね。


9回最後の1人を迎えて

カウント3-0になった時ね

ベンチから歩かせろのサインが

出たんだよ。


でもさ

これからノーヒットノーランを

やろうとするピッチャーがだよ

ヒットを恐れて

一塁に歩かせるなんて

とんでもないって

思ったんだよ。


それで言うこと聞かずにいたら

キャッチャーの吉田孝司さんが

マウンドに飛んできて

「歩かせろっていってるのに

(サインが)見えないのか?」

って言いにきた。


でも俺は

「わかってるよ。でもダメだ。」

って返事した。

どうしても勝負したかったんだ。


それで思い切って

ど真ん中にストレートを投げたら

打ち返されたけど

レフトの相羽欣厚(あいばよしひろ)さんが

左中間に寄っていて

それで捕ってくれたんだ。


後で「なんで歩かせない」って

藤田さんには怒られたよ。

川上監督も藤田さんも

俺が2軍に行って

どれだけ大人しくなったかと

期待してたかと思うけどね(笑)


当時の新聞記事に

俺のコメント

こんなこと書いてある。


「今の気持ちを

なんていったらいいのかわからない。

最後にジーンときたのは

僕がとったピッチャーゴロ

吉田孝さんのキャッチャーフライ

それに相羽さんへの当たりで

終わったでしょう。

それがなんともいえず

うれしかった。

みな、僕を励ましてくれた

合宿の仲間だったんですもの」


へ~~~(笑)


俺、このゲームで

ホームラン賞1本6,000円×3

ノーヒットノーラン 50,000円

計68,000円頂いちゃったもんだから

それを持って

一三さん、倉田さん

相羽さん、吉田さんたち

一軍の合宿所仲間を誘って

後楽園球場からバーに直行したんだ。


今日はお祝いだーって

みんなで気持ちよく

ナポレオンなんかも呑んでたら

所持金が足りなくなっちゃってね。


俺、自分の時計を形に置いて

帰ってくるはめになったよ(笑)


これが俺の

1967年10月10日の出来事でした。

最後まで

読んでくれありがとう!


俺のドラフト 巨人1位指名となるまで

川上監督が甲府の実家にやってきた!

(C)報知新聞社

スポーツ報知の連載の

第2回目にお話しさせてもらった

甲府商業1年時の監督

菅沼八十八郎さん


この恩師との出会いが

俺が巨人に入り

活躍できた全ての始まりだった。


俺、実はね

高校2年の夏の甲子園予選が終わった後に

2つの球団から

高校を中退してプロにならないか、って

声をかけられたんだ。


その時提示された契約金が4000万円


当時、埼玉上尾高校の山崎裕之さんが

プロ野球史上最高の5000万円で

東京オリオンズと契約して

世間を騒がせていたからね、

プロ野球での自分の価値を

知ったようで本当に驚いたんだ。


当時、順調にきていた

オヤジの生糸工場が

時代の流れからか

大変そうなのを

子どもなりに感じるところがあってね


自分がプロでやっていけるのか

という不安よりも

その4000万円があれば

工場が助かるかと思い

俺の心の中では

プロに行きたいと思っていた。


でも、両親が

高校ぐらいはちゃんと

卒業しろというもんだから

その話はそれ以上進まなかった。


その1年後

契約金の高騰が問題視され

ドラフト制度が実施されることになり

契約金は最高で1000万円と

制限されたんだ。


あ~俺の3000万円は

どこへいったのだ~(笑)


高校3年生になると

甲府にやって来る

プロ野球のスカウトの数が

どんどんと増えていったが

大学に進学するか

プロに入るか

まだ決めかねていたんだ。


そしてそこからが

菅沼さんの出番だった。


日頃から

「お前はプロに行かせる。

そして全国の野球ファンに

こんな選手がいるということをみてもらいたい」

と言っていた菅沼さんは

「堀内は巨人にいれる」

ことしか考えていなかった。


菅沼さん自身

巨人ファンということもあったが

何よりも、必ず試合が

テレビ中継されることで

俺のピッチングを

全国の人に見せるという思いが

実現するからだった。


色々なつてをたどって

情報を集めた結果

どうやら巨人の1位指名は

夏の甲子園で準優勝投手となった

銚子商業の木樽正明が

最有力候補だったらしい。


巨人は伝統的にスター選手を

とるのが好きだったから

俺みたいな

甲府の田舎の高校生は

ちょっと違ったんだろうな。


しかし菅沼さんは諦めなかった。

なんとか1位指名候補を

堀内に代える手はないものか。


菅沼さんはまず

大学時代の後輩である

明治大学の島岡吉郎監督のもとを訪れた。


島岡さんは最初

俺を明治に入れたいという

相談で来たのかと思ったらしい。


俺のピッチングを見て

知っていた島岡さんは

最初は喜んで

菅沼さんの話を聞いていたらしいが

蓋を開けてみたら

実はプロに入れたいという。

そしてプロに入れなかったら

俺が早稲田に行きたいと

言ってもきかないと。


それを聞いた島岡さんは

「あんなやつが早稲田に

行ったらどうなるんだ。

明治は勝てないだろう。

早稲田に行くぐらいなら

巨人に入れた方がましだ。」と

理由は違えど

菅沼さんの作戦に

賛同してくれることになった。


そこで今度は

島岡さんが

教え子であり

巨人のスカウトである

沢田幸夫さんに話を

もっていった。


沢田さんは

すぐに動いてくれた。

スカウトとして

俺の力を知ってくれていた

ことも大きかった。


甲府で菅沼さんと会い

「堀内巨人ドラフト1位指名作戦」

が本格的に始動した。


沢田さんはまず

大学に進学させたがっている

両親の説得をし

詰めの段階に入った

巨人のスタッフ会議で

俺を1位指名することを提案した。


その時、川上監督に

木樽に全く劣らないこと

そして

もしピッチャーとして使えなくても

ショートが出来ると説明した。

この一言が効いた。


この時

ショートを守っていた広岡達朗さんが

盛りを過ぎていて

次の人材を探していたところだった。


そして巨人は俺を

1位指名でいくことが決まったんだ。


それ後

菅沼さんから

マスコミには

こう話すようにと言われた。


「僕は早稲田に行きます。

どうしても六大学でやりたい。

巨人が指名してくれたら考えますけど

他のチームだったら早稲田に行きます。」


そして昭和41年11月

プロ野球初の

ドラフト会議が行われ

俺の1位指名は巨人だけだった。

俺の言葉を気にして

ほとんどの球団が2位指名だった。


そしてすぐに

入団となるかと思いきや

菅沼さんは

俺にこう言った。


「俺がいいというまで

プロに入ると言ってはいけない。

大学に行くと言い続けるんだ。」と。


どうしてかわからなかったけど

言う通りにした。


これも菅沼さんと沢田さんの作戦だった。


沢田さんが

堀内がプロ入りする決心を

なかなかしなくて

自分の手には負えません。

川上監督に説得に行ってほしいと

頼んだそうだ。


自分で説得に行ったとなれば

川上さんも俺に対して

自分が入団させた選手という思いになるはずだ。

そうすれば目をかけるだろうし

トレードも出しにくくなる、

という考えだったらしい。


そして川上監督は

新聞社の車を何台も従えて

甲府の田舎にやってきた。


1時間もいなかったが

「どうだジャイアンツで一緒に野球をやらんかい」

と言いにやってきたのだ。


そして晴れて

入団発表となった。


真新しいユニフォームには

「21」の番号がついていた。


もっと大きい番号が

ついているかと思っていたから

すごく嬉しかったのを覚えている。


そのユニフォームを見て

俺の性格を知り尽くしている

菅沼さんはこう思ったそうだ。


𠮟咤激励の言葉ではなく

この背番号こそが

俺をエースにして

くれるだろうとね。



俺の引退試合

1983年10月22日 現役最後の打席 後楽園球場にて

(C)報知新聞社

いい写真だね~

我ながら惚れ惚れするよ(笑)

ちなみに、俺、右手に手袋してるけど

これ間違いじゃないからね、

右手を守るためだよ。


この写真はね、俺の引退試合での一枚


この引退試合は

巨人の優勝が確定した後の消化試合でね

そうなると、とたんに

球場に足を運んでくれる人が

少なくなることを

俺自身、よく知っていたからね

俺、女房にさ

スタンドがカラガラだったらどうしよう

なんて、ちょっと弱気なこと言ったんだよ。


そうしたら、うちの女房

何て言ったと思う?

「大丈夫よ!私と子どもたち

それにお母さんや妹さんも来てくれるから

誰もいないところで投げることには

ならないわよ!」だって(笑)


試合開始は午後1時30分

対戦相手は大洋ホエールズ

6対3で迎えた8回表

とうとうその時がやってきた。


俺の名前がアナウンスされる。

「ピッチャー堀内、背番号18」

これを聞くのも今日で最後か。


当時はリリーフカーに乗って

マウンドまでいくスタイルだったけど

この日、俺は断ったんだ。


ブルペンからマウンドへの道

それは

ピッチャーにとって男の花道だ

だから最後は

その道をゆっくり歩いていくと

決めていたんだ。


「さぁ、扉を開けてくれ。今日は歩いていく」


俺は堂々と

そして

ゆっくりとマウンドまで歩くつもりだった。


そしたらさ

スタンドのみんなが

総立ちになって拍手をしながら

俺を迎え入れてくれたわけさ。


想像以上の大歓声に

急に足元がおぼつかなくなって

早くマウンドに行かねばと

しまいには、俺、走りだしちゃったよ(笑)


そして、その回

大洋打線を3人でピシャと抑えた。


よし、この調子で

後1回抑えればいいんだ。


しかし・・・

その後、とんでもないドラマが

待っていたんだよ。


8回裏 巨人の攻撃

先頭打者 5番 駒田徳広が

ライトスタンドに

特大のホームランを放った。


その時、誰かがこう叫んだんだ

「みんな、ホリさんまでまわそうぜ!」

嬉しい言葉だったけど

そんなことありえないと思ったよ。


だって俺の打順

9番じゃなくて

篠塚和典に代わって

3番に入ったからね


それに消化試合だけあって

すでにこの回には

ほとんどが若手や

控え選手に代わっていたからさ


ところがだよ

6番 石渡 茂 四球

7番 クルーズ 三振

8番 吉田孝司 ヒット

9番 山本功児 3ランホームラン

1番 吉村禎章 三塁打

2番 鈴木康友 スクイズ


なんと!

1死1塁の場面で

本当に俺までまわってきちゃったんだよ!

どう考えてもありえんだろうって。


俺は急遽、山倉和博の

ヘルメットと手袋をつけ

淡口憲治のバットを借りて

バッターボックスに立った。


ベンチを出る時

若い選手に

「ホリさん、一発いこうよ!」なんて

はっぱかけられたけど

「バカ言うんじゃないよ!」

って笑いながら言い返したよ。


俺はもうバッティングの練習なんて

いつしたかも覚えてないくらいだったし

打席に立つこともまれになってたんだ。


いつも強気なことを言う俺だけど

そこには確たる自信があったから。

でもこの時の俺は

打てる気なんてサラサラなかったんだ。


ピッチャーは金沢次男

1球目 ストライク

2球目 空振り

目がボールの速さに

全然追いつかない。

みんなが一丸となって

俺にくれたチャンスだけど

こりゃ、本当にダメだと思った。


3球目 ボール

でもね、この1球

この時に突然ボールが

ハッキリと見えたんだ。

こりゃ、いけるかもしれん。

一瞬にして確信に変わった。


そして4球目

すっぽ抜けたような

ストレートがきた。


俺はそのボールを見逃さず

思い切って振ってやったんだ。

当たった瞬間、感じたね。

「ホームラン」だって。


それが

俺の現役最後の打席

通算21本目の本塁打


悲鳴にも似た歓声が沸き

スタンドからは紙吹雪やら

紙テープがあちこちから

舞い上がった。


俺がベースを1周し終わった後も

興奮冷めやらずで

係員が外野に投げ込まれた

紙テープの山を拾っているのに

球審がプレーを宣告しちゃうほど

球場全体がパニック状態に

なったようだった。


試合後に球場の特別室で

記者会見が行われた。


今回はその時に言った言葉で

締めくくりたいと思う。


俺は努力なしで

素質だけでずっとやってきた。

それについては色々言う人もいるだろう。

しかし人生ってのは何本もの道があるけど

結局自分のたどる道というのは1本しかない。

俺はその道を歩いてきたんだ。

やりたいことは全部やった。悔いはないよ。




俺にとっての「V9」時代

1972年 V8を決め祝杯をする(左から)黒江・王・長嶋・堀内・森

(C)報知新聞社


「V9」1965年~1973年

巨人が9年連続セ・リーグ優勝と

日本一になったことを言うんだけど

今回はその中でも「V8」1972年(昭和47年)の

お話しをしたい。

この年は1年を通して

ものすごい調子が良かった。


これからする話

俺の著書で紹介したことはあるけど

初めて聞く人が多いかもしれないな。

変なやつだと思われるかもしれんが

事実なのでしょうがない。


春の宮崎キャンプに行く直前の

多摩川グラウンドで練習していた時のこと。


当時ピッチングコーチだった藤田元司さんから

「ホリ、20球アウトコースの

低めを投げて終わりな」

って言われたんだ。

それを3日連続やれってさ。


1日目

あっちこっちいくのが俺の持ち味なんだから

20球決めるのに100球以上かかったよ。


それがね、3日目に

なんと20数球で終えられたんだ。


俺に何が起きたって?


しつこいようだけど本当の話だからね。


投げようとして左足をステップした時に

突然、俺の指先から

2本のラインが浮かび上がったんだ。

そのラインはキャッチャーミットまで続いてね、

ここに投げれば

アウトコース低めに投げられるっていうのが

はっきり見えたんだよ!


えええええ!


何がなんだかわからんけど

とにかく俺が投げたいところに

ラインが浮かびあがってくるんだからさ、

俺はそのレールのようなラインの上に

ボールを乗せるだけでよかったんだよ!


そうすると

キャッチャーが構えたところに

ビシビシ決まるもんだから

俺自身ビックリしたけど

周りの人達はもっとビックリしたんじゃない?


これはおもしろい!って思ってさ、

この感覚を忘れちゃいけない、

早く体に染み込ませなくちゃの一心で

宮崎キャンプに行ってから

急に投げ込むもんだから

練習嫌いの俺がどうしたのかって

報道関係の人もビックリしたと思うよ。


俺がこんな体験をするまではね、

打撃の神様と言われた川上哲治さんが

「ボールが止まって見えた」

っていう名言を残してるんだけど

その言葉を全然信じてなくてさ。


だいたい、ボールが止まるなんてありえない

練習で倒れる寸前までバットを振って

一種の錯覚を起こしたんじゃないか、

って勝手に想像してたけど・・・。


俺も宣言します!

「指先からラインが見えました!」(笑)


そう言ったわけで、

コントロールが俄然良くなった俺は

リリーフで投げても勝ち投手が転がってきたりと

運も味方になってくれ

シーズン成績 26勝9敗をマーク

25勝以上勝った

最後のピッチャーと呼ばれてるよ。


シーズンMVPも獲得できた。

「V9」時代のMVP

長嶋さんと王さんの2人以外は

この年の俺だけなんだよ。


最高勝率・最多勝・沢村賞

ベストナイン・ダイアモンドグラブ

最優秀投手・MVP

そして日本シリーズでもMVP・最優秀投手

とにかくこの年は凄かったんだ。

俺にとって最高のシーズンだったよ。


でもね、これ、オヤジが

力をくれたと思ってるんだ。


この年の初めに

オヤジが胃がんだってことがわかってね、

オヤジを山梨から呼んで

東京の日赤病院に入院してもらった。


東京にいる時は必ず

朝オヤジを見舞ってから球場入りし

試合が終わった後も

オヤジの顔を見てから自宅に帰る。

そんな日を繰り返した1年だった。


俺、オヤジを喜ばせたくて

1つでも多く「今日、勝ったよ」って

報告したかったんだ、きっと。


そのシーズンが終わった翌年

1973年1月16日にオヤジは亡くなった。

なんと、俺の誕生日。

全てはつながってるんだなって思ったよ。



1976年8月17日 対広島東洋カープ20回戦

1500奪三振  

史上23人目

1976年 長嶋茂雄監督とガッチリ握手

(C)報知新聞社


俺のプロとしての奪三振成績 1865個

今、こんなに奪三振記録で騒がれるなら

もっと真剣にとっときゃよかったな(笑)

でも俺の三振は

悪いけど内容の濃い三振だからね。


俺さ、プロに入って

「81球で完封したい」が夢だった。

全打席27人を

三球三振で打ち取ってゲームセット

ありえないけどね。

確か、江川も同じこと言ってたっけ。


でもV9時代の

川上監督と当時コーチだった藤田さんからの

言葉で考えがかわったんだ。

川上さんは絶対俺には直接言ってこない、

藤田さんを通してなんだけど、

藤田さんはピッチャー出身だから

同じピッチャーの心理を

よくわかって話してくれたよね。


三振をとっても

一球でゴロやフライに打ち取っても同じアウトだぞ。

だったら三球で三振をとりにいくよりかは

初球ヒットにならないボールを

投げられるように練習しろ、って。

同じストライクでもあるんだよ

アウトコース低めとかね。

それに先発ピッチャーなんだから

少しでも長く投げられるように

その方が球数が少なくて済むだろうってさ。


それからは、無駄な三振はとらない。

2アウトからの三振はいらない。

ランナーがサードにいる時は

必ず三振をとりにいく。

三振とりたい時にとれるのが本物だ。

そう思ってやってきた。

だから「内容の濃い三振をとってきた」と

自信をもって言える理由はそこにあるんだ。



でもさ、俺、フォアボールは多かったんだよね。

一三さんもだけど。

名前にひっかけて

一三さんはワンスリー

俺はツースリーの堀内って言われるくらい

フルカウントまでいくんだけど

まず打たれないし、点はやらないんだよ。

だったら、もっと早くケリつけろよ

って長嶋さんにもよく言われた。

野手出身の監督は

どうやら見ていられないみたいだね。

一三さんか俺が先発だと

川上さんの貧乏ゆすりが始まるんだよ。


その最たるのがさ、サンケイアトムズとの試合。

俺が先発で10対0で勝ってた試合でさ、

5回ツーアウトから

フォアボール3つだして満塁になったんだよ、

俺はどんなにランナー出しても

点とられなきゃいいと思ってるからね。


そしたら川上さんがベンチから出てきて

「何しにきたんだ?」と思ったら

「ピッチャー交代」だって。

そんなことが4回あった。

180球投げて完封した試合もあるのにさ。

川上さん、見ていられなかったんだろうね。

俺、通算成績203勝だけど

本当は207勝とれたはずなんだけど(笑)



奪三振は1000から500きざみに表彰されるんだ。

今みたいに試合をとめてはやらず

終わってからね。

当時はトロフィーがもらえるのが

主流だったからさ、

俺、記録づくめで

たくさんのトロフィーを持って帰ったね。

持って帰るとさ、女房は口では言わないけど

「トロフィーも嬉しいけど、それじゃなくて・・・」

って顔に書いてあったな(笑)



とは言え、奪三振はピッチャーの華。

もっと取りたかったなぁ~。




「巨人の星」星飛雄馬のピッチングフォームのモデルとなった

V9巨人 左のエース 高橋一三さん 

2015年7月14日 急逝 享年69歳

7月の1枚は、一三さんを偲んで

1971年10月1日 東京駅にて 真ん中が高橋一三さん 

(C)報知新聞社


三回忌かぁ・・・早いもんだな。

V9時代、俺が右のエース

一三さんが左のエース

いなくなっちゃうと、寂しいもんだなぁ。

いかり肩の先輩が見れなくて

本当に寂しいよ・・・。


一三さんは1歳年上で

寮で3年間一緒に過ごした仲なんだよね。

一軍での試合の日

基本、選手は寮から球場まで

電車で行くんだけど

だいたい車を持っている先輩に

相乗りさせてもらうんだよね。

一三さんは20歳になって

すぐに免許をとって車を買ったから

(ちなみに俺が車を買ったのは25歳)

俺は、いつも一三さんの車に

相乗りさせてもらってたよ。


でもさぁ、一三さん、エライ方向音痴でさ、

俺が横に乗って、毎回毎回

後楽園球場や神宮球場まで

ナビしてあげてたんだけど

びっくりするくらい

本当に道を覚えない人だったよね。

俺がいなくちゃ、道に迷って、

絶対、先発に間に合わなかったからね!

一三さん!!


写真からもわかると思うけど

一三さんっておとなしい感じだろ。

意外と芯はしっかりしてるんだけどね。

俺は見た目通り、うるせーから

両極端で相性が良かったのかもね。


野球以外でも、呑みに行くのも

遊びに行くのも、いっつも一緒だった。

俺の門限破りっていうのは

あちこちで有名みたいだけど、

みんなも一緒になって破ってたのに

なぜか見つかって怒られるのは俺一人なんだよ。

俺さ、自慢じゃないけど

18歳で寮に入ってから、この年になっても、

いまだに一人で呑みに行くのも

食事に行くのも出来ないんだぜ。

一人で出かけられないのに

一人で門限破りなんてあるわけないじゃんか。


でも一三さんって

マウンドだと存在感抜群なのに、

プライベートだと本当におとなしすぎて、

一緒にいても誰も気がつかないことが

よくあったんだよね。

だから、俺1人で呑んでると

勘違いされちゃうんだよ。


そもそも、なんで門限破って

部屋にいないのがばれちゃうかというとね、

ファンの人が寮に電話をかけてくるわけ

身内のフリしてね。

普通は絶対に電話はつなげないよ。

でも当時は、電話番が2軍の選手だから

身内って言われると、

ようわからんまま寮長に報告して

寮長が部屋に呼びにくるわけだ

で、部屋にいないのがばれちゃうという・・・。


呑みに行って門限過ぎてからの帰りは

色んなところから部屋に入ったよ。

風呂場、非常階段・・・

最後には長はしごを買って

俺の部屋のロッカーに隠しておいたからね。

俺は先発の前日は

絶対に呑みに行かなかったから

行ったやつらは帰ってくると

俺の部屋の窓に向かって石を投げるのさ。

それを合図に俺が長はしごを下ろして

みんなが部屋に入ってきたりしてたんだよ。

試合に勝つには

日頃からのチームプレイが大事さ(笑)

しかし楽しい時代だったなぁ。


いや~想い出話がつきないね。

今年は連敗記録のことがあって

1975年の話が頻繁に話題に上ったせいか、

一三さんのことを思いだす機会も頻繁にあったよ。


これからも、こんな風にときどき話していこうかな。

もう時効だよね。


いいよね、一三さん。



1972年の堀内恒夫

(C)報知新聞社

1972年6月9日 

対 阪神タイガース8回戦

阪神甲子園球場 

江夏豊氏と互いに99勝で投げ合い

堀内9回完封で対決を制し、100勝を達成


俺の野球人生に欠かせない人物の1人!


江夏豊よ!


彼は、俺より1年遅いデビューなんだけど、

その当時、巨人VS阪神戦っていったらもの凄い盛り上がりでな


チーム内でも「絶対に負けるな!」ってみんなが言い合ってさ

本当気合い入ってたよな~


江夏とは、当然エース対決ってことで

否が応でも燃えたね!


彼は最初から完成されたピッチャーで

俺は粗削りな、

投げてみなけりゃわからないピッチャーだったからな~


でも、彼がいてくれたから

俺も頑張れたんだ!


100勝の時も150勝の時も

どちらが先かで

巨人VS阪神戦を盛り上げたからね。


ちなみに、150勝の時は先をこされて

結局、1勝1敗!


良きライバルさ!